「ハイカラケイバを初めて候(そうろう)」コラム①
クラブ馬主の先駆け
日本初の洋式競馬場・根岸競馬場。東日本初のゴルフ場もオープンしていました
馬券発売黙許によって全国各地に誕生した競馬場は、そのモデルを日本レース倶楽部※に求めました。しかし、各地の競馬組織は営利を優先させ、不正も行われたので、1908年(明治41)10月に新刑法が施行されると、政府は同月5日馬券発売を禁止、競馬は政府の補助金によって細々と続けられました。
1912年(大正元)、日本レース倶楽部の一部の会員は共有(同)馬主となり、“コロネル・ボギー”という仮定名称で、根岸競馬に持馬を出走させました。創始となる一口馬主クラブの発足です。1915年(同4)時点では、一口25円を支出した会員は25名、20円は14名、10円は48名という記録が残されています。服色は「赤、黒袖口、帽」、所有馬は抽選馬のみ、競走馬名は全てゴルフ用語から命名されました。第1号はスタイミー号、その後マツシー、フーズラー、フオアサム号などを所有しました。特にドライバー号が活躍、一方、ビスク号は譲渡された後に帝室御賞典(大正5年根岸春季)を優勝しています。
遡ること1901年(明治34)、日本レースクラブ会員がコース(馬場)内のグラウンドを、公園やレクリエーション施設用の土地として購入する計画を提案、1905年(同38)に完了しました。そしてスポーツを行うことを目的にグラウンドの使用が県から許可され、ゴルフ好きの会員たちはゴルフ場建設を要望しました。1906年(明治39)、ゴルフ場を取り仕切る「日本レースクラブゴルフアソシエーション」が設立され、同組織が“コロネル・ボギー”を結成、補助金時代の日本レース倶楽部を下支えしたのです。同年11月22日、9ホール(パー33、全長2,261m)の開場式が行われました。開設されたゴルフ場は日本初の芝グリーン※※ゴルフ場でした。
※明治39年1月22日、社団法人として登録。「クラブ」から「倶楽部」と名称が変更されました
※※既に開設されていた六甲・横屋(共に兵庫県)はサンド(砂)グリーン
※※既に開設されていた六甲・横屋(共に兵庫県)はサンド(砂)グリーン