横浜と馬、競馬の歴史
開港前後の横浜
開港前は小さな漁村、開港後は急速に発展
ペリー提督一行の横浜上陸 1854年(嘉永7/安政元) 横浜開港資料館蔵
1853年(嘉永6)、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に開国を求め来航し、翌年日米和親条約が締結され、200年以上続いた鎖国体制は終わりを告げました。その後、1858年(安政5)に締結された日米修好通商条約により、横浜は翌年開港しました。条約に規定されていた開港場は、東海道の宿場でもあった神奈川 (現在の神奈川区神奈川本町から青木町付近)でした。しかし、外国人と攘夷派(外国人排斥派)との衝突を恐れた幕府は、代替地として当時小さな漁村であった横浜村一帯を整備し開港場としました。
条約締結に伴い、幕府は横浜に外国人居留地を置くことを決定しました。居留地とは、開港場のなかで外国人の 居住・商業活動を認めた地域を指します。最初の関内居留地は現在の山下町にあたり、その後横浜新田(現在の中華街一帯)や太田屋新田(現在の横浜市役所・横浜スタジアム付近)が埋め立てられて居留地に組み込まれ、市街地として整備・拡充が図られました。1866年(慶応2)に開港場で発生した大火災(慶応の大火)を機に、現在の横浜公園が造成された他、防火帯として現在の日本大通りが整備されました。
その後、1867年(慶応3)に山手地域が居留地に編入されると、港に近い関内居留地は商業地域として、高台にある山手居留地は住宅地として、それぞれ発展を遂げました。
横浜村の農家「ペリー提督日本遠征記」より
横浜開港資料館蔵
横浜明細全図 1864年(元治元)原版/1868年(慶応4)再版
馬の博物館蔵
開港から5年後の横浜居留地周辺を描いた物で、外国人と日本人の居住区が色分けされています。
横浜開港資料館蔵
横浜明細全図 1864年(元治元)原版/1868年(慶応4)再版
馬の博物館蔵
開港から5年後の横浜居留地周辺を描いた物で、外国人と日本人の居住区が色分けされています。