横浜と馬、競馬の歴史
サーカスがやってきた
日本人に興奮と感動を与えた西洋曲馬団一座
「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」 橋本周延画
1886年(明治19)馬の博物館蔵
皇居内の吹上御所においてチャリネの興行を天覧した際の様子を描いた錦絵です。
1886年(明治19)馬の博物館蔵
皇居内の吹上御所においてチャリネの興行を天覧した際の様子を描いた錦絵です。
開港後の横浜では、海外からさまざまな文明や文化が持ち込まれましたが、その一つに「西洋曲馬[きょくば](サーカス)」がありました。曲馬とは、馬を用いた軽業[かるわざ]・曲芸のことで、日本では室町時代すでに武芸の余戯として行われ、江戸時代には朝鮮通信使節の馬上才[ばじょうさい]に影響を受けながら、「和式曲馬」として確立しました。和式曲馬は芝居所作が入るのが特徴で、上方から江戸に移動し享和から文化・文政にかけて見世物興行の最盛期を迎えました。そして明治から大正初期には「馬芝居」の名で広く上演されましたが、時代の流れとともに消滅してしまいました
一方、サーカスは1864年(元冶元)に横浜で初めて行われました。居留地在住のアメリカ人リズリーが、香港から団員と馬を呼び「中天竺[ちゅうてんじく]舶来[はくらい]軽業[かるわざ]」という一座を組織し、3頭立てや火の輪くぐりなどの曲馬の他、玉乗り、鉄棒などを披露しました。1871年(明治4)にはフランスのスリエ一座が来日し、九段の招魂社(現在の靖国神社)、浅草、京都、新潟などで興行した記録が残されています。1874・86・89年(同7・19・22)と3度来日したイタリアのチャリネ曲馬団は、当時最も人気を博したサーカス一行です。横浜や外神田秋葉ヶ原(現在の秋葉原)で興行し、円形の演技場で繰り広げられる曲馬をはじめ、ライオンやトラなど当時の日本では珍しい猛獣ショーの数々は、皇居内の吹上御所で天覧された他、全国の居留地内外で長期間巡業され、大衆を魅了しました。
「中天竺舶来之軽業」 歌川芳虎画
1864年(元冶元) 馬の博物館蔵
「佛蘭西曲馬」 歌川国輝画 明治時代
馬の博物館蔵
1864年(元冶元) 馬の博物館蔵
「佛蘭西曲馬」 歌川国輝画 明治時代
馬の博物館蔵