横浜と馬、競馬の歴史
「根岸競馬場」竣工
居留外国人が切望した本格的な洋式競馬場
ザ・ファー・イースト 1870年11月16日号 馬の博物館蔵
明治3年秋季の競馬開設時の様子です。手前で競馬を見ている日本人はほっかむりをしてちょんまげを隠しています。
明治3年秋季の競馬開設時の様子です。手前で競馬を見ている日本人はほっかむりをしてちょんまげを隠しています。
居留外国人用の競馬場は、1864年(元治元)に徳川幕府とイギリス・アメリカ・フランス・オランダとの間で締結された「横浜居留地覚書」において、居留地の背後にあった沼地(現在の中区扇町から松影町付近)を幕府側が埋め立て、新たに競馬場として外国人に貸し出すことが明記されていました。
しかし、1862年(文久2)の生麦事件を契機に諸外国との緊張が高まるなか、攘夷派との衝突を懸念した幕府・外国団双方は、候補地を東海道から離れた安全な場所に確保する交渉を続け、最終的に郊外に位置する丘の上の“根岸”を用地に選びました。
1866年(慶応2)、イギリス駐屯軍将校らが設計・監督のもと、日本で最初の本格的な競馬場施設「根岸競馬場」を建設し、同年12月に舞台が“根岸”となった内容が記載された「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約定書」を締結しました。運営組織はイギリス人を中心とした「横浜レースクラブ」で、翌年1月には記念すべき最初の競馬が開催されました。
競馬場完成当初は、居留外国人のみが洋式競馬を楽しんでいましたが、次第に日本人も参加するようになり、横浜レースクラブの分裂・統一を経て、1880年(明治13)に日本レースクラブが結成されました。同クラブの名誉会員には宮家が、正会員には西郷従道・松方正義・伊藤博文といった明治新政府の重鎮が名を連ね、競走馬を所有し積極的に根岸競馬に参入するようになりました。
根岸競馬場全景 フィリップ・ベアト撮影
1870年(明治3)横浜開港資料館蔵
完成間もない根岸競馬場の写真で、右奥には小さくスタンドが見えます。
横浜名所之内 大日本横浜根岸万国人競馬興行ノ図 永林信実
1872年(明治5) 馬の博物館蔵
根岸競馬場を題材とした現存する唯一の浮世絵です。
1870年(明治3)横浜開港資料館蔵
完成間もない根岸競馬場の写真で、右奥には小さくスタンドが見えます。
横浜名所之内 大日本横浜根岸万国人競馬興行ノ図 永林信実
1872年(明治5) 馬の博物館蔵
根岸競馬場を題材とした現存する唯一の浮世絵です。