横浜と馬、競馬の歴史
根岸(横浜)競馬場、悲運の幕切れ
76年間の開催にピリオド
根岸競馬場での春季競馬 1934年(昭和9) 向かって左側の一等馬見所(スタンド)は現在も一部が残されています。
馬券発売黙許によって全国各地に誕生した競馬場は、そのモデルを日本レースクラブに求めました。しかし、各地の競馬組織は営利追及に走りがちで、不正も行われたので、政府はマスコミの標的となり、1907年(明治41)10月に新刑法が施行されると、同月5日馬券発売は禁止され、関係者にとっては難局の補助金競馬時代となり、競馬は細々と続けられました。
1923年(大正12)念願の馬券発売を認める競馬法(旧)が成立し、日本レース倶楽部をはじめとする全国11の競馬倶楽部は公認競馬をスタートさせました。しかし9月の関東大震災によって根岸競馬場の施設は半壊し、秋季開催を見送ることになりましたが、翌年競馬は再開されました。1929年(昭和4)にはJ.H.モーガン設計による鉄骨・鉄筋コンクリートのスタンド工事に着手、完成後二等スタンドの増築が行われました。
1936年(昭和11)競馬法は大改正され、競馬倶楽部は解散、日本競馬会という統合組織のもと日本レース倶楽部は翌年10月に吸収され、名称も日本競馬会横浜競馬場に変更されました。一方で市民のレジャーとして最盛期を迎え1939年(同14)からは皐月賞がはじまり、軍事色の濃い世相の中で横浜をはじめ各競馬場は、入場者数・売上げともに順調に成長していきました。しかし1941年(同16)、太平洋戦争開戦に伴い競馬場の付属施設に神奈川県警察による敵国収容所が設けられました。翌年になると競馬場は軍港が一望できるとの理由と作戦上必要な施設であるとして海軍省に接収され、1943年(同18)閉場式を挙行、76年の歴史に終止符を打ちました。
セントライト号が優勝した第3回(昭和16)皐月賞(当時の名称は横浜農林省賞典四歳呼馬競走)
閉場式の記念撮影
閉場式の記念撮影