横浜と馬、競馬の歴史
根岸競馬場跡地、市民の憩いの名所へ
戦後の根岸(横浜)競馬史
馬の博物館外観(スタンド付)
1945年(昭和20)、終戦後に横浜競馬場全域は連合軍に占領されました。米軍は印刷工場を引続き文寿堂に行わせました。この間走路と空地は軍用のトラックやジープの駐車場となり、馬場内にはゴルフ場が復活しました。その後文寿堂が摘発を受けたため、米軍の調達業務から外され、スタンドは住宅管理部の事務所となりました。なお、1959年(同34)に住宅地区の管理が陸軍から海軍に移りました。
一方日本競馬会にとって横浜競馬場の復活問題は重要な関心事でした。そのため安田理事長は1945年(昭和20)8月29日、終戦と同時に海軍省から大蔵省に引き渡された国有財産の元横浜競馬場の払下げについて、大臣に陳情しました。さらに管理が異動した東京財務局長、斡旋役の畜産局長、続いて横浜終戦連絡事務局長に陳情、同時にアメリカ第八軍司令官アイケルバーガー中将あてにも陳情書を提出し返還を要請しました。しかし横浜競馬場の復活と払下げには強力なライバルがいました。1947年(昭和22)3月1日、神奈川県知事から社団法人の設立認可を受けたインターナショナル・レースクラブでした。理事長のC.H.モスは元日本レース倶楽部の正会員でした。
当然、接収解除は大幅に遅れ、既に日本競馬会は解散、国営競馬を経て1954年(昭和29)9月から日本中央競馬会へと組織は移行していました。石坂弘同会理事長は、直ちに畜産局長にあて散逸防止のため貸与を要望しました。その後紆余曲折はありましたが、1969年(同44)11月24日に日米合同委員会で返還が決定。大部分は横浜市の公園用地とされ、一部を日本中央競馬会が取得しました。現在、それぞれ根岸森林公園、馬の博物館・ポニーセンターとなり市民の憩いの名所として親しまれています。
空撮
きゅう舎のようす
きゅう舎のようす