2013年3月1日
【第2回】野間馬によせて(のまうまによせて)
馬の博物館 村井文彦
1. 花は桜木
花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ
源頼政
『従三位頼政集』 春 歌林苑にて人々花の歌とてよませ給うける
「花は桜木、人は武士」という言葉がありますが、この和歌はまさにその桜によせて武士が詠んだ作品です。
待ち望んでいた開花の報せがやって来る、いざ馬に鞍を置いて出で立とう-山に花開いた桜のたよりを告げるのも、馬に乗った武者でしょうか。「来る音」は、道を急ぐ馬の蹄の音だそうです。
この作品を遺した源頼政(1104生-1180没)は平安時代終わりごろの武者で、宮中を脅かした妖怪を退治したという伝承によって良く知られています。と同時に、このような名歌を遺した歌人でもありました。
そして、源頼光の流れをくむ摂津源氏の独自の立場を守りつつ「武者の世」の始まりを生き、長い人生の終りには源平合戦の先駆けとなっています。
時代はさかのぼりますが、同じく源氏の一門で、源頼光の弟・源頼信の血を引く河内源氏を率いた源義家(1039 ? 生-1106没)にも桜を詠った歌があります。
吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな
源義家
『千載和歌集』陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる
この歌は源義家が陸奥国に赴いたおりに、風に散らされる花を惜しんで詠んだ歌とのことです。
源義家は、陸奥守に任命された父源頼義に従い、安倍頼時・貞任・宗任等を相手に「前九年の役」で戦い、まだ十代の若武者ながら馬上で弓を射て武名をあげています。さらに、後には祖父源頼信・父源頼義と同じく陸奥守となりました。
また、源頼信と源頼義には『今昔物語』の次のような説話が知られています。
-源頼信は「東」(あづま)に良い馬がいると聞き、持主に申入れて買い求め、都へと送らせました。ところが、源頼信の他に、この馬の真価を見出したものがいました。とある馬盗人です。彼もこの名馬を是非手に入れようと、後をつけ、盗む機会をうかがいます。けれども、さすがは源頼信、馬を運ぶ家来に油断はなく、奪うことが出来ません。とうとう東国から京へ、はるばる上りゆくこととなりました。その努力が報われたのか、京都の源頼信の屋敷の厩に収められた馬を、馬盗人はようやく引き出すことに成功します。後は名馬に乗って逃げ切りを狙うだけです。しかし、そう思った馬盗人の背後には、馬で追いかける源頼信・頼義父子が迫っていたのでした…-
この説話は平安時代の武士の暮らしを生き生きと伝えるものとして知られており、教科書に載ったことがあるので、ご存知の方も多いことと思います。
2. 人は馬づくり
さて、この源頼信頼義父子の物語では、名馬の産地を「東」としています。
今日、日本の馬の主な産地は北海道ですが、かつては日本列島の東に位置する東国が馬の名産地として知られていたのでした。
『日本書紀』の「雄略天皇紀」には甲斐(山梨県)の黒駒が見えており、奈良平安の昔に宮中で催された駒迎えの儀式には信濃国(長野県)の望月の駒等が登場します。
坂東八ヶ国(関東地方)にも多くの馬産地がありました。房総半島の牧場も有名で、そうした牧場を基盤にして平将門のような武人が立ち上がったとも考えられています。
武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県横浜市・川崎市の一部)の馬の牧場で生まれた若駒は、武蔵の国の中心であった武蔵国府に集められ、馬場での競走で能力を試し、選ばれた良い馬を都に上らせていたとも言います。
武蔵国府は今の東京都府中市にあり、その馬場は府中の大国魂神社の傍らにあったと伝えられています。つまり、府中には古代から現代につながる優駿の伝統があるのです。
加えて、奈良時代から東北地方の産馬の評判も高くなります。当時、日本の国の力が必ずしも及んでいなかったこの東北地方の駿馬は、長い歴史を経て、南部馬として広く知られるようになります。
そうした歴史もあり、現在でも東北地方には馬文化が深く根づいています。もっとも、南部馬をはじめ古くからの馬の血統は、日本の近代化の過程でほとんど途絶えています。けれども、かつての東北の人々が守り育てた南部馬は、今、北海道に残った日本在来馬である「どさんこ」(北海道和種)に受け継がれているということです。日本在来馬の代表として、かつて馬の博物館のポニーセンターにいた「五月姫(さつきひめ)」号と「宝海太郎(ほうかいたろう)」号の2頭も、この「どさんこ」(北海道和種)でした。
より古い時代に目を転じてみると、東国の他にも馬の名産地がありました。今を去ること1600年余り前の飛鳥時代に、推古天皇は名門蘇我氏をほめ讃えて、「馬ならば日向の駒」と歌っています。馬の日本代表の一つに宮崎県産馬があげられていたのです。
そういえば、宮崎県にはやはり日本在来馬の「御崎馬(みさきうま)」がいます。日向国(宮崎県)だけではありません、南九州の薩摩(鹿児島県)でもかつては馬造りが盛んでした。
では、馬の博物館のポニーセンターに今年2月、新しくやって来た野間馬の故郷はどうだったのでしょうか?
野間馬は四国の愛媛県今治市で育まれていますが、今の愛媛県・昔の伊予国といえば、藤原純友や海賊河野党等、船で海に乗り出して勢力をふるった人々の印象が強いかと思います。とはいえ、四国全体を見渡せば、隣の阿波国(徳島県)の徳島藩蜂須賀家に騎馬打毬があり、山を越えて南側の土佐国(高知県)で「土佐馬」が育てられていたこと等がわかります。
阿波の騎馬打毬は、昭和年間まで受け継がれており、「土佐馬」には「小柄な馬である。山の坂道を良く歩く」といった記録を見出すこともできます。小柄であること、山の坂道を良く歩くということは、生まれ育った地域の地形で働くのに適した馬であった、ということでしょう。
伊予国や土佐国のように、どちらかというと馬産地としての名声のない加賀や能登(石川県)、美濃(岐阜県)や三河や尾張(愛知県)といった、地域にも馬造りの伝統がありました。こうした土地からは、日本全国に名をとどろかせるような名馬は生まれなかったかもしれません。そうであっても、或いは、そうであるからこそ、そこには少なくとも地元の人々にとって必要な馬づくりの歴史があり伝統があったに違いありません。
野間馬は、言わばそのような、あまり語られることのなかった地域の馬産の生き証人なのです。
源頼政の和歌については『清唱千首』塚本邦雄(冨山房 1983年)を参考にいたしました。