2018年11月2日

徳川吉宗、相馬地方の馬づくりを調べる

江戸幕府8代将軍の徳川吉宗(1684~1751)は、「享保の改革」により多くの政策を打ち出した人物として有名です。よく知られているのは幕府の機構改革や武芸の復興、目安箱の設置、サツマイモの栽培普及などでしょうか。実はそれらの他に、畜産業についても各地で調査を行わせています。今回は、吉宗が命じた相馬地方における馬の飼育調査についてご紹介します。

江戸時代の名馬といえば、盛岡藩が生産する南部馬がもっとも有名ですが、現在の福島県の中通り地方も、北方(伊達郡)と南方(白河郡)での馬生産が盛んでした。その伊達郡には幕府直轄領、白河郡には白河藩領があり、幕府へも情報が入りやすかったのでしょうが、浜通りと呼ばれる太平洋岸の畜産業はあまり知られていなかったようです。吉宗は、現在の相馬市から南相馬市、双葉郡浪江町一帯を支配していた相馬藩へ家臣を送り、馬の飼育・調教・治療方法などを調べさせました。

調査に当たったのは、幕府の儒学者近藤寿俊(こんどうひさとし・1704~84)です。寿俊は宝永元年生まれで、家業である儒学以外に馬術や儀礼についても学んだようです。享保19年(1734)7月には馬書を2冊、さらに弓術・馬術に関する書籍を著し吉宗に献上しました。元文3年(1738)には、流鏑馬の儀礼に関する書を作成し褒賞され、吉宗の乗用馬を預けられるようになりました。現在確認できるだけでも、11冊の馬書や馬に関する儀礼書を書き上げていますから、当時は相当多くの書籍を執筆していたのでしょう。寛保元年(1741)4月に家督を継いでいますから、この前後に調査を命じられたと思われます。

相馬地方へ赴いた寿俊は、馬牧で相馬藩主の乗用馬を選ぶ作業にはじまり、物音や大きな傘に驚かない訓練、打毬・早懸け・流鏑馬など武芸にかかわる調教を見学し、さらに馬のメンテナンスについても調べています。ただし、吉宗は寿俊の報告だけでは足りないと判断したのか、絵師も同行させました。絵師の名は岡本善悦(おかもとぜんえつ・1689~1767)。和歌山藩に仕えていた茶道坊主で、幼いころから画才があったため、本格的に絵を学ぶことが許可されたといわれます。そして同じ和歌山藩に仕える絵師並川甫雲(?~?)に師事しますが、彼は幕府奥絵師の狩野常信(1613~1713)の弟子だったので、善悦は常信の孫弟子ということになります。吉宗が徳川宗家を継承すると、これに随行して幕臣となりました。

善悦は、同朋格として奥絵師なみの待遇を受けますが、単に絵画を制作したり、著名な作品の模写を命じられるだけではなく、将軍の意向を奥絵師狩野家や住吉家らに伝えるなど、取次役としても活動しました。こうして寿俊が調査を行い、その現場を善悦が描いてできあがったのが、『厩坂図会』(うまやさかずえ)という絵巻物です。『厩坂図会』が他の絵巻と異なるのは、飼育や調教に携わった人々の行動をそのまま書き取ったというだけではなく、それらの人々のしゃべったことばまで、直接絵の中に書き入れているということです。ちょうど、現在のマンガで使用される吹き出しのような形式にすることにより、具体的な生産や育成を報告しようとしたのでしょう。

『厩坂図会』の一部を写真で見てみることにしましょう。図1は馬を追っている情景です。右側の人物が「そりゃそりゃ。」と手をたたきながら歩ませようとしています。左の人物は「あんまり追うまい。これは感が良い。」とたしなめています。馬にはスズメ形の焼き印が押されています。

【図1】

図2は削蹄の場面です。中央の侍が包丁で蹄を切っており、「この爪は前を断ちすぎた。」と言っています。前肢をおさえる従者は「腕・爪ともに、このようなものは少のうございます。」、左の従者は「どうも前かきをいたしてなりませぬ。」としゃべっています。削蹄をしながら、馬の品定めをしているのでしょう。

【図2】

図3は体毛を整えているところの図です。右側の武士は高下駄をはいて背を高くし、首筋の毛を刈っています。「急いで刈ると、段ができてみっともない。」と言っていますから、ハサミに精神を集中しているようです。左の従者は「その次にこれを洗おう。」と言っています。従者は次の作業を気にしています。さきほどの図1もそうですが、侍のことばに従者が対応していないのは、両者に時間的な差があるのを示しているのでしょう。

【図3】

図4では、蹄や体毛を整えた後なのか、馬を洗っています。右上のことばは首をおさえる人物のようです。「六助、熱い湯で上毛を洗って伸ばしてくれ。」と頼んでいます。それに応えたのが柄杓を持った六助です。「合点じゃ。あまり熱いと毛が固まって悪くなる。」と言っていますから、近くの桶には熱湯が入れてあったのかもしれません。しかし、ぬるすぎるのも困るらしく、左下では蹄の裏を洗う人物が「固い裏じゃ。」とグチをこぼしています。

【図4】

図5は焼き印の場面です。焼き印は日本では印(かね)と呼ばれていました。馬は木製の枠場に固定されています。すでに印は押されたらしく、印を持つ後方の侍は「庭乘りはよいかの。忘れまいぞ。」と声をかけています。左側の従者は「塩をあげましょ。」と塩が入った箱を持っています。馬に食べさせるのか、それとも消毒のため印の後にふりかけたのかはわかりません。右下では侍か従者か不明ですが「湯がぬるすぎた。」と言っています。洗い残しでも見つけたのでしょう。馬の前方では作業の終了により、「六助、もはや肢を解きやれ。」と言っています。寿俊が調査した相馬藩の牧では、図1のようにスズメのデザインを施した焼き印などが使用されていました。

【図5】

通常、絵にあわせて文字を書き入れるのならば、どのような行動をとっているかを説明するものでしょう。ところが、寿俊は実際に話されたことばを書いています。現場の声を直接聞きたかったのは吉宗だったのでしょうか。いずれにせよ、この構成によって『厩坂図会』はともてもユニークな絵巻物となりました。同時代にこのような形式の絵巻物はありません。

寿俊らの調査はいつ実施されたか正確にはわかりません。奥書に享保年間(1716~36)の調査である旨が記されています。ですが、寿俊の経歴によるかぎり寛保元年(1741)以降と考えたほうがよいように思われます。しかも絵巻物の制作には時日を要したらしく、吉宗は完成品を見ずに死去しました。寿俊は、吉宗の墓所である寛永寺にこれを奉納しました。寛政10年(1798)、この経緯を知ったある人物が、幕府馬預の曲木正昉を通じて、旗本花房家に保管されていた『厩坂図会』の控えを模写して後世に伝えようとしました。それが馬の博物館所蔵本『厩坂図会』です。

執筆:学芸部 長塚孝