2023年8月10日

謎の伝馬黒印状

戦国時代、農村には収穫物や労働力によって負担する税がありましたが、陸上交通の中継地である宿場にも税はありました。その主なものは、伝馬役(てんまやく)と呼ばれています。主要な街道にある宿では、交通関係の営業をする者が、輸送のための馬や人夫を所有しています。その宿がある地域を支配している戦国大名は、輸送にかんする業者に対して、一定の計算のもとに無料で働かせたのです(もちろん、そのための優遇措置は設けられていました)。
伝馬役は、宿の実情をもとに1日あたり馬を何疋、人夫を何人と決めて従事させていました。伝馬は、宿が必ず負担しなければなりませんが、いつでもどこまでも無料で使用すれば、宿は衰退してしまいます。そのため、厳密な規則が作られました。ひとつは、隣の宿より遠くまでは運ばないこと、もうひとつは1日分として決められた馬数・人夫数の使用限度を超えてはいけないこと。この2点です。税を徴収する側である大名といえども、この規則を破ることは許されません。無料で使用できる数を超えたならば、あとの荷物などは必ず有料となりました。
伝馬を利用する命令は、地域ごとに異なっていたようですが、東国では大名が印を捺した手形を出すことが多かったようです。朱色の印を捺した手形は伝馬朱印状、墨色の印が捺してあれば伝馬黒印状と呼んでいます。本稿は近年、馬の博物館が収集した資料の中から、伝馬を命じた黒印状1点をご紹介します。

伝馬黒印状

画像を参照してください。黒印状は縦304㎜、横236㎜という縦長の形をしています。料紙は雁皮を主な材料とした斐紙(ひし)か、楮の紙を加工した打紙(うちがみ)を使っています。文章は短いものですが、簡単に訳すと以下のとおりになります。

伝馬10疋を犬山まで出しなさい。内容は以上のとおりです。
戌年2月15日 城(黒印)
当町
小牧 宿中

宛名は当町の宿と小牧宿です。目的地が犬山(愛知県犬山市)、中継地が小牧(同県小牧市)ですから、当町と書かれた場所は、街道を逆にたどっていけば推定できるはずです。黒印状が出せるのは、大名クラスの人物でしょう。その人物の居住地となれば、清須(同県清須市)か、名古屋(同県名古屋市)しか想定されません。伝馬の使用を命じられた荷物は、清須あるいは名古屋から小牧まで運び、小牧宿で飼われている馬に付け替えて犬山に運ばれたわけです。命令を出しているのは、尾張国(愛知県西部)全体あるいは当町・小牧・犬山すべてを支配しているか、少なくとも当町と小牧を支配している人物です。しかも、伝馬朱印状・黒印状が出されるようになったのは戦国時代以降ですから、尾張1国ないしは大部分を支配している人物となると、発給者は織田信長・信忠・信雄、羽柴秀次、松平忠吉、徳川義直に限られます。
黒印状の出された年は戌年と記されています。信長時代より後の戌年となると、①天正2年(1574)・②天正14年(1586)・③慶長3年(1598)・④ 慶長15年(1610)・⑤ 元和8年(1622)などが該当します。天正2年は織田信長、同14年は織田信雄、慶長15年・元和8年は徳川義直が尾張国を支配しています。③の慶長3年だけは、清須と犬山の城主が異なるので除外できます。

黒印拡大画像

次に、文書の特徴を見ることにしましょう。通常、年月日の下には発給者の署名や花押が書かれるか、あるいは印章が捺されます。この文書は伝馬の使用という簡単な命令のため、名前もなければ花押もありません。ただ本来名前を書く位置に「城」という字が書かれ、その下に黒印が捺されています。黒印は縦45㎜、横51㎜で、外側に一重の枠線があります。印の上部には左側を向いた馬首のデザインが施されており、大きさ縦19㎜、最大幅25㎜です。印文は、右から3行にわたり「鼎福」「宿」「諸伝」と刻まれ、2行目の下部には丸に「上」の字も入っています。黒印はこの文書以外に捺された例が見つかっていません。さて、発給者は誰でしょうか。
さきほどの候補者から検討します。織田信長は、天正9年(1581)11月8日に出したと思われる伝馬朱印状が1点だけ残っています(皆川文書)。朱印状の料紙は、黒印状より一回り小さいものですが、同じ縦長です。捺された朱印の位置は紙の下部ではなく、上部右側になっています。印文は読めません。似ているのは、印章の上部に左向きの馬首がデザインされていることだけで、あとは黒印状と異なります。黒印状は、どうやら信長の文書ではないようです。
つぎに織田信雄はどうでしょうか。天正13年11月29日、中部地方から近畿地方にかけて起こった大地震により、信雄の本拠だった長島城(三重県桑名市)が倒壊してしまいます。信雄は長島に居続けることなく、翌14年2月18日以前に清須(愛知県清須市)を居城としました(氷室光太夫家文書)。つまり発給者が信雄ならば、清須入城前後に黒印状を発したことになります。署名部分に「城」と記したのは、清須入部と関係があるかもしれません。黒印が信雄の印章だとすると、父信長が使用した伝馬朱印を模倣して、印章の上部に馬頭を付けたことになります。信雄が通常使用している印章は、父信長の印章に似た楕円形で、内部に「威加海内」と印文が刻まれています。伝馬の印章もまねていても、おかしくはありません。
最後に徳川義直です。義直は慶長12年(1607)4月に清須城主となることが決まりましたが、実際に尾張へ入部したのは元和2年(1616)です。黒印状が慶長15年の発給ならば、発したのは義直の代理役の人物、付家老の平岩親吉と考えられることになります。これは最近考えられた説ではなく、すでに昭和9年(1934)に相田二郎(東京帝国大学文学部史料編纂官)が提唱したものです。ただし相田は原本を見ておらず、『名古屋温故会絵葉書』の第34輯に掲載された「江崎祐八氏所蔵史料絵葉書」を閲覧して考察しています。相田は、親吉の印章と伝馬黒印に、よく似た扇子状の文様が入っていることから、双方とも同一人物の印章だと推定しています。しかし、文字ではなく空白部分が似ているものの、外郭のデザインはまったく異なっており、必ずしも同一人物の印章とはいえません。

名古屋温故会絵葉書:個人蔵

元和8年、義直が直接発した黒印状の可能性はあるでしょうか。義直ならば、死去する慶安3年(1650)5月までに同じ印章を利用しているはずですが、現在にいたるまで他の黒印状は見つかっていません。となれば、初代尾張藩主の伝馬黒印状と断定することはできないでしょう。以上のように考察すると、確定できているわけではありませんが、織田信雄の発給文書だという可能性がいちばん高いように思えます。
さきほど述べたように、この伝馬黒印状は『名古屋温故会絵葉書』第34輯により第二次大戦前から存在が知られていました。「江崎祐八氏所蔵史料絵葉書」は、①伝馬黒印状、②同黒印状の印影、③3月19日付松平家康書状、④寛永11年10月某日付連署状、⑤徳川義直筆馬の撓幟、⑥小牧山模型という、6枚の絵葉書により構成されています。
江崎家は、小牧村の庄屋を務めた家として知られています。黒印状は、漆塗りの箱に収められており、蓋には「江﨑祐八家宝」と墨書された紙が貼られています。また箱裏にも貼り紙があり、「廿三年明治天皇天覧 信長清州在城 駅路伝馬古証文」と墨書されています。江崎家では、織田信長が清須城主だったころの証文と伝えられていたのです。廿三年の天覧というのは、明治23年(1890)に行われた行幸に際して天覧があったということです。23年3月28日、明治天皇は陸海軍大演習統監のため愛知県へ行幸しました。演習終了後の4月4日、愛知県会議事堂において寺院の什物や地方産物を陳列し、天覧に供しています。その際に伝馬黒印状も置かれていたことになります。これが契機になったのかもしれませんが、地元で絵葉書が作成されました。しかし、その後はあまり注目されていなかったようです。所有者の家に信長文書だという伝承が残っていたのは、信長子息の発給文書が代々語り継がれる中で、信長の伝承に変わっていったせいかもしれません。

〔参考文献〕
相田二郎著『戦国大名の印章―印判状の研究―』(名著出版、1976年)
愛知県史編さん委員会編『愛知県史』資料編12(愛知県、2007年)
宮内庁著『明治天皇紀』第7(吉川弘文館、1972年)

執筆:長塚孝