2014年1月17日
【2014年第1回】昭和初期に賑わいを見せた2つの戸塚競馬場
馬の博物館 長岡 武
神奈川県横浜市戸塚区。江戸時代、東海道の宿場町として栄えたこの地に、競馬場があったことをご存じでしょうか。1933年(昭和8)~1942年(昭和17)までは鎌倉郡戸塚町吉田(現在の横浜市戸塚区吉田町)に、1942年(昭和17)~1950年(昭和25)までは横浜市戸塚区汲沢町に競馬場があり、太平洋戦争を挟んだ一時期を除き競馬が開催されていました。そこで今回は昭和初期に地方競馬の中でも高い売り上げを誇った戸塚競馬場の歴史を振り返っていきます。
1.吉田町時代
現在、日本の競馬は中央競馬と地方競馬の2つに分けることできますが、戸塚競馬は地方競馬に属していました。神奈川県ではいわゆる地方競馬と呼ばれるものは大正末期には8か所(藤沢・大船・平塚・小田原・松田・横須賀・厚木・鶴見)で施行されていましたが、1927年(昭和2)地方競馬規則が公布され、神奈川県においては神奈川県畜産組合連合会が競馬を開催することになります。そして県内の競馬場を平塚、藤沢、小田原、大船の4ヶ所に制限して開催する計画を建てましたが、その後の地方競馬規則の改正により県内で競馬を開催できるのは2ヶ所に制限されます。そこで、1932年(昭和7)3月、川崎市大師河原字塩原耕地に川崎競馬場を開設し、翌1933年(昭和8)11月25日、戸塚駅近くの戸塚町吉田に戸塚競馬場が竣工し、12月7日から4日間、第1回戸塚競馬が開催されました。
戸塚競馬場(写真提供:坂本写真)
戸塚競馬場は走路1600m、幅30m、田畑を埋めて造成されたコースになっていました。コースの内側はもとの田畑のまま利用され∞型のコースになっており、毎年、春と秋に競馬が開催されていました。ちなみに馬券は単勝と複勝のみの発売でした。当時の戸塚競馬は人気があったようで、競馬開催日の戸塚駅近くの踏切では人込みを整理するため、毎回警察官が動員されていたようです。ちなみに1934年(昭和9)3月の開催では、初日の1日に3万余人の入場者があり、4日間のトータルでは20万人余りという大盛況でした。
1939年~1940年(昭和14~15)頃の戸塚駅東口(写真提供:坂本写真)
現在の戸塚駅東口
この時代の戸塚の町を振り返ってみると、1928年(昭和3)に水道工事が竣工し、翌1930年(昭和5)3月15日には横須賀線が電化され、汽車にかわり電車が戸塚駅に停車するようになります。さらに翌年には戸塚町の東海道が舗装され、映画館が建てられ、野球場が出来る等、町が発展していった時期でした。こうした町の発展や競馬場の賑いもあり、1937年(昭和12)4月には戸塚駅に裏口(現在の東口)が設けられました。そして1939年(昭和14)4月1日、鎌倉郡内の1町7か村が横浜市に合併され戸塚区が誕生します。この頃、戸塚一帯には工場が多く造られ、地価も上昇し人口も増え、新興住宅地ともなっていきました。因みにこの年の3月に行われた戸塚競馬では4日間の売上が100万円を突破しています。
しかし、時代が日中戦争から太平洋戦争へと進んでいく戦時下の体制の中で、競馬を今まで通り楽しむという状況ではなくなっていきます。そして軍馬の補充育成のため1940年(昭和15)には鍛錬馬競走へと変わっていき、鍛錬馬競走のない時は牛の品評会なども行われていました。
牛の品評会の風景(写真提供:坂本写真)
2.汲沢町時代
1942年(昭和17)、戸塚競馬場は吉田町から汲沢町へ移転することになります。同年10月2日には汲沢の新しい競馬場で落成式が行われ、10月12日から15日まで鍛錬馬競走が行われました。汲沢の競馬場は走路1000m、幅25mの馬場が設けられ、馬匹組合連合会の運営のもと鍛錬馬競走が施行されていき、汲沢での鍛錬馬競走は1944年(昭和19)まで実施されました。一方、吉田町の競馬場跡地は日本光学戸塚工場となります。
終戦後の1946年(昭和21)、正式な法的根拠はないものの神奈川県が合法化する形で8月17日から25日まで、神奈川県馬匹組合連合会によって競馬が再開されます。いわゆるヤミ競馬です。久しぶりの競馬に連日多数の観衆が集まり、売り上げも3000万円近い数字を記録しました。続いて同年11月8日~11日には海外同胞援護基金募集として開催され、2400万円の売り上げを記録しています。この当時は各地でヤミ競馬が行われていましたが、戸塚競馬は当代随一の売り上げを誇っていました。そして、同年11月20日には地方競馬法が施行され、ようやく正式な法規にもとづいた競馬が開催されるようになります。
1949年(昭和24)戸塚競馬開催ポスター
1948年(昭和23)には競馬法が改正され、戸塚競馬は県営及び市営での委託開催となります。1949年(昭和24)8月3日の開催では、23万円の大穴馬券がでるなど盛り上がりを見せていましたが、交通の便の良い川崎に新しい競馬場が竣工したことにより川崎競馬が発展していきます。一方、戸塚駅から遠く立地条件の悪かった戸塚競馬は1950年(昭和25)10月の開催が最後となり、1954年(昭和29)12月の神奈川県議会で戸塚競馬場の全面廃止が決定し、歴史に幕を下ろすことになります。競馬場の跡地には、1960年(昭和35)横浜市立戸塚高等学校が移転してきます。地元の人の話では、競馬場があったころには小学校の遠足で訪れたことがあるそうで、高校が移転してきた当初はグラウンドの一部に競馬場の面影が残っていたそうです。競馬場の敷地は戸塚高等学校だけではなく、現在の汲沢団地の一部にまで及んでいたようです。一方、吉田町の戸塚競馬場跡は終戦後、米軍が接収し戸塚PX(米軍施設内の売店)等となり、現在その跡地には日立横浜工場や東戸塚小学校が建てられており、いずれも当時を偲ばせるものは残っていません。
- 参考文献:
- 『戸塚区史』(戸塚区史刊行委員会)
『写真集 とつか70年目の風景』(戸塚区役所 区政推進課)
『地方競馬史』(地方競馬全国協会)
『全国地方競馬沿革誌』(社団法人帝国馬匹協会)
『日本競馬史』(日本中央競馬会) 他