公益財団法人馬事文化財団

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2016年10月14日

秀吉に馬わらじを贈った男

戦国時代、合戦や輸送に多くの馬が活躍しました。大部分の馬は名前も経歴もわかりませんが、たまには生産地がわかったり、誰から誰へ贈られたのを知ることができる馬もいます。たいていは優秀な乗用馬で、馬をプレゼントとしてもらった人物が、お礼に書いた書状(手紙)に馬のことを記しているからです。書状には、毛色や乗り心地などまで記していることがあります。
もちろん馬だけではなく、親しい間柄ではいろいろな物品を贈ることがあったでしょう。今回は、馬ではなく馬具を羽柴秀吉(豊臣秀吉)へプレゼントした人物に関する古文書を掲載して、ある戦国武士の生き方を覗いてみたいと思います。

写真で掲載したのは、秀吉が林長兵衛尉という人物に送った古文書で、朱印を押していることから朱印状と呼ばれるものです。簡単に内容を訳してみましょう。

羽柴秀吉朱印状
昨日は、早々とお見舞いくださり、特に馬の沓を10足お贈りいただき喜んでいます。さて、その城の番についてですが、油断なく命令しておくことが大事です。なお、尾藤甚右衛門尉が詳しいことを話します。恐々謹言。
8月20日 筑前守秀吉(朱印)
林長兵衛尉どの

秀吉は林に陣中見舞いを受けたこと、馬の沓を10足もらったことにお礼を言い、林の守る城について厳重な警戒が必要だと伝えています。馬の沓(くつ)というのは、馬わらじのことです。

日本の在来馬は、ヨーロッパの馬に比べて蹄が固いとはいいますが、長時間の走行や岩場での作業では損耗する可能性がありました。しかし日本には、蹄鉄を作る技術が導入されていませんでした。そのため、蹄を守るには人間用のわらじに似せた馬用のわらじを作って履かせていました。林は、10足分作らせて秀吉に贈ったわけです。10足といっても、馬の蹄は人間の足の裏よりも大きいですし、肢も4本ですから、人間の倍以上のわらを使っていることになります。

馬わらじ

林の実名は直次といいます。森蘭丸(実際には乱法師)成利で有名な森家の家老で、蘭丸たちの叔父にあたる人物でもあります。森一族は織田信長に従って各地を転戦しており、蘭丸の父と長兄は早くに戦死しています。さらに天正10年(1582)には本能寺の変で蘭丸本人と弟2人が戦死、続いて2年後の小牧・長久手合戦で次兄の長可が戦死し、森一族で残ったのは、末の弟(千丸)ただ一人となりました。

実は、この古文書は小牧・長久手合戦の最中に出されたものです。4月9日に長可が討ち死にしていますから、その4か月後のことです。林は合戦には参加せず、森家の本拠である岐阜県可児市の金山(かねやま)城を守っていたようです。秀吉が城の番が大事だと述べているのは、金山城のことでしょう。金山城には、幼い千丸が残っていたはずですから、林が千丸を保護していたと思われます。

金山城跡

戦国時代、成人前の男子しかいない武家は、所領を没収されるのが普通でした。子供に土地の支配を任せたり、合戦への参加はさせられないからです。当然、千丸しか残っていない森家も取り潰しの対象とされます。

さいわい森家は、長可の戦死が忠節と認められ、存続が認められました。千丸は、ただちに元服して忠政と名のりました。それでもまだ少年です。林は家老として、叔父として、忠政に代わり秀吉へ陣中見舞いしたのです。この後も、林は忠政の代理として軍勢を率い、秀吉に従い戦い続けました。

また、現物は残っていませんが、林家が編纂した家譜『林家覚書』の中に、秀吉が林へ送った書状が写してあります。それによると、林は年末年始に布や衣装・干し柿などを贈っています。また、小牧・長久手合戦から7年後には、鷹狩りをしている秀吉へ、贈り物をしています。林の残した書き付けによると、以下に訳したような内容だったようです。

馬ゆがけ2つと鷂(はいたか)ゆがけが到来しましたので喜んでいます。なお長谷川右兵衛尉が詳しいことを話します。
閏正月十七日 御朱印
林長兵衛尉どの

ゆがけ(弓懸)というのは、弓道で矢を持つ方の手を守る道具です。通常は指3本を覆う程度なのですが、騎乗した人物が矢を射るためには、指5本すべてを守る手袋タイプのゆがけが必要でした。また鷹用のゆがけというのは、分厚い革でできています。鷹は爪が鋭いので、腕に留まらせるとけがをするからです。

天正19年(1591)、東北地方の一部を除き、秀吉による天下一統がなされました。年の初め、秀吉は三河国の吉良周辺(愛知県西尾市)で鷹狩りを楽しんでいます。林長兵衛は、この噂を早くに聞きつけたのか、鷹狩り直前に右の道具を贈っています。素早い対応に、秀吉は喜んだのでしょう。

林の贈り物は、大名が秀吉へ献上するような豪華な物品はありません。どちらかというと、武士が普段使うような馬具や武具、あるいは食品といった地味な物が中心です。それだけに、地方の武士が主家のために努力するようすが目に浮かぶようです。

このような、林の尽力も効力を発したのか、忠政は秀吉に認められ、金山で7万石を与えられました。兄の長可と同じ規模の知行です。秀吉の死後には、川中島(長野県北部一帯)へ移されて13万7,500石を与えられました。

そして、関ケ原合戦では東軍に参加します。徳川家康も忠政には信頼を寄せていたらしく、合戦から3年後の慶長8年(1603)には、津山(岡山県津山市)で18万6,500石を授与しました。当時、15万石以上の大名は、大名の中でも特別扱いされるものでした。林も筆頭家老として1万石を与えられることが決まりましたが、忠政が相談なく家臣を処分したことを抗議し森家を離れました。そして出家して道休と名のっています。のちに、道休は忠政と和解しますが森家には戻らず、広島の福島正則を経て、姫路の本多忠政に仕えました。そして寛永19年(1642)に、大和郡山で死去しました。88歳だったと伝えられています。

これらの資料は、10月15日から12月4日まで行う秋季特別展「信長の馬・秀吉の馬」で展示します。

執筆:馬の博物館 学芸部長 長塚孝

この記事は、北海道新聞社の「道新スポーツ・馬事通信」2016年9月15日号に掲載された「秀吉に馬わらじを贈った男」を、ご許可をいただいて一部書き改めて転載いたしました。