公益財団法人馬事文化財団

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2017年1月13日

幕末の志士から浮世絵師へ -楊洲周延のご紹介-

幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師の一人に(よう)(しゅう) 周延(ちかのぶ) (1838‐1912・本名橋本直義)がいます。周延は、「千代田の大奥」や「真美人」などのシリーズで人気を集めました。一方、浮世絵師でありながら幕末には 榎本武揚(えのもとたけあき) らとともに戊辰戦争を戦った珍しい経歴の人物でもあります。今回は馬の博物館所蔵資料の中から、周延作品をご紹介いたします。

楊洲周延は、越後高田藩(現・新潟県上越市)の下級藩士の家に生まれ、嘉永5年(1852)15歳のころ、武者絵で人気を博した歌川(くに)(よし) (1797‐1861)の門人となりました。国芳の没後は、役者絵や美人画で知られる人気絵師であった歌川(くに)(さだ) (1786‐1864)、次いで国貞門人であった豊原国(くに)(ちか) (1835‐1900)に師事し、国周門下では第一人者となっています。

周延が浮世絵師として頭角を現し始めたころ、時代は幕末の動乱期を迎えます。慶応4年(1868)、江戸城無血開城に揺れる中、周延は自ら筆をおくと、高田藩の有志らによる神木隊に入ります。神木隊は、新政府に抵抗する彰義隊とともに上野戦争を戦いました。しかし、圧倒的な武力の差によって官軍にわずか一日で敗れると、江戸を脱して函館を目指します。函館では、榎本武揚に従い五稜郭に籠城、艦砲射撃に耐えながら最後まで徹底抗戦を続けますが、明治2年(1869)ついに降伏。この五稜郭の戦いの終結により、戊辰戦争が幕を閉じました。

その後、周延は一時高田藩預かりとなり謹慎処分などを受けますが、明治8年(1875)「好める道を以て世を渡らん」(『都新聞』大正元年(1912)10月2日)として上京、湯島天神町に居を構え、浮世絵師として再出発しました。周延の本格的な活動は、明治に入ってからとなります。

「雪月花 山城嵯峨月弾正仲国小督の局」明治17年(1884)

周延にとって、戊辰戦争を経験したことはその後の画業にも大きな影響を与えたといえます。浮世絵師として本格的に再始動したのち、明治10年(1877)に起こった西南の役を題材にした錦絵では、実体験を元にしたのでしょう。これまでの武者絵とは異なる戦場の臨場感あふれる作品となっており、当時の人々の関心を大いに引き付けたことがうかがえます。

一方で、周延は歴史画や美人画など、繊細な画題も得意としていました。こちらは、雪月花シリーズの一枚で、 小督局(こごうのつぼね) と高倉天皇の恋物語を題材にした錦絵です。雪月花とは、冬の雪、秋の月、春の花(桜)に代表される四季折々の美しさをあらわすもので、多くの浮世絵師が手がけたテーマです。小督は高倉帝の寵愛を受けた女性でした。高倉帝の中宮は平徳子で、時の権力者である平清盛の娘であったため、小督は清盛を恐れ嵯峨野に身を隠します。これを嘆き悲しんだ帝は、笛の名手であった側近(だん) 正仲(じょうなか)(くに) に小督を捜索させました。ある名月の夜、仲国は自身の笛の音に応える琴の音が、小督のものであることに気付きます。こうして居所が分かり、秘かに宮中へ戻って再び寵愛を受ける小督でしたが、その後清盛によって出家を余儀なくされ、帝は若くして崩御してしまうという哀しい結末を迎えます。この物語は能舞台にもなっており、比較的人気のある演目です。すすきを揺らす夜風に仲国の笛が響き、小督が爪弾く琴の音がかすかに聞こえてくるような、月が陰る秋の夜を描いた美しい作品です。

「鵯越」明治26年(1893)

続いてご紹介するのは、源平合戦で有名な源義経の(ひよどり)(ごえ) の坂落としを描いた三枚一組(三枚続)の木版画です。一の谷合戦の際、平氏が陣を張った一の谷と生田の森(現神戸市)に対し、源範頼は生田の森から攻め込み、義経は一の谷の断崖絶壁であった鵯越を馬で駆けおり、挟み撃ちするという奇襲作戦を行いました。この結果、平氏は海へと逃れ源氏方が勝利します。鵯越を描いた浮世絵は多数ありますが、この周延作品で特徴的なのは、三枚の版画のうち中心に義経を大きく配した大胆な構図です。余計な描写や装飾を排し、今まさに崖を下ろうとする騎乗の義経に視線を集めることで、緊張感のある画面を生み出しています。三枚続に人物一人だけを描くという斬新な構図は、周延の師である豊原国周が編み出したものといわれており、周延はこの手法に影響を受けたことがうかがえます。

「東京上野不忍大競馬ノ図」明治時代
「上野不忍競馬之図」明治時代

最後にご紹介するのは、上野不忍競馬之図です。明治17年(1884)11月1日、上野不忍池畔では明治天皇をお迎えし、華々しく共同競馬会社の開業式が行われました。図3の「東京上野不忍大競馬ノ図」はその様子を描いたものであり、繰り広げられるレースを背景に、明治天皇と皇后、そして華やかに着飾った女官たちが大きく描かれています。実際には開催初日に皇后は来臨されていませんが、こうした不忍池競馬を描いた作品の多くが事前に広告として発行された想像図であり、この作品もそのひとつと考えられます。注目したいのは、図4の「上野不忍競馬之図」です。同じ題材ですが、翌年に描かれた後者では皇后や女官の服が洋装に変わっていることがわかります。不忍競馬のほかにも、鹿鳴館に象徴される欧化政策のなかで、宮中のみならず市井の人々が次第にこれを受容し、人も町も様変わりしていく様子を周延はつぶさに捉え、多くの美人風俗画に残しました。

大正元年(1912)、周延は明治という激動の時代の終焉とともに75歳でこの世を去ります。戊辰戦争後に新時代を迎え、世の中が大きく変化する中で、周延は自らが生きる道を浮世絵師と定め、生涯を全うしました。周延の門人からは鍋田玉英が出ていますが、その後、梶田半古(英洲)、小林古径、前田青邨、奥村土牛ら近代日本画の巨匠たちへと繋がってゆきます。

今回ご紹介した「雪月花」および「鵯越」は12月10日より1月下旬まで馬の博物館(横浜市)にて展示いたします。ご覧いただければ幸いです。

執筆:馬の博物館 学芸部 廣瀬 薫

この記事は、「道新スポーツ・馬事通信」2016年11月15日号に掲載された「馬の博物館の資料紹介②楊洲周延編」を、ご許可をいただいて一部書き改めて転載いたしました。